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古代から現代までの大阪の歴史を学ぶことができる大阪歴史博物館へ行ってきた

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ひらたけ

大阪に引っ越してきてからもうすぐ 7 年。日々の生活の中で大阪の文化に触れたり、街を歩いたり、そして有名な場所からあまり人が多くない場所まで様々な観光地などを訪れて歴史を学んだりしてきた私ですが、この辺りでちゃんと大阪の歴史を学ぼうと思い立ち 大阪歴史博物館へ行ってきました🏛


やってきたのは、Osaka Metro 谷町線・中央線の谷町四丁目駅から歩いて 5 分ほどの場所。この場所はかつて難波宮という宮殿があった場所で、そんな歴史の深いところに大阪歴史博物館が建っています。建物は NHK 大阪放送会館 と一体となっており、大阪城公園側の道路から見て左が大阪歴史博物館(地上 13 階建て)、右が NHK 大阪放送会館(地上 18 階建て)です。

建物の東側には難波宮跡が広がり、かつて宮殿があった場所を自由に歩くことができるようになっています。私も 以前訪れたことがある のですが、道路によって南北に分断されている史跡エリアの南側はだだっ広い原っぱがあって、ところどころに昔の建物を復元したのかな?という建造物が見られるような感じ。

大阪歴史博物館の写真

道路の北側には「なノにわ」という商業施設があり、この施設を含め難波宮跡の北側のエリアは昨年春に開園したばかりという比較的新しい場所です。

こちらのエリアも昨年 実際に訪れた のですが、オシャレなカフェやレストランなどが並んでいるだけでなく、かつて天皇が日常生活を営んだり政務を行ったりしていたとされる難波宮の後期内裏正殿の一部を再現したエリアもあり、料理やカフェでの穏やかな時間を楽しみつつも歴史を感じられる、そんな施設になっていました。

しかしながら、南側のエリアも北側のエリアも難波宮についての説明は最小限で、展示されているものも正直そこまで多いわけでもないなという印象。すぐ真横に大阪歴史博物館という立派な施設があるわけなので、詳しく知りたい人はそっちに行ってね、という感じなのでしょう。というわけで、今回は大阪の古代から現代までの歴史を学ぶべく 大阪歴史博物館 を訪問しました。

大阪歴史博物館の「難波津焼き」の陶壁「難波大阪」の写真

背の高い建物同士に挟まれた、謎の球体みたいなところにある入口から建物の中へ。そこから大阪歴史博物館の受付へと向かいます。観覧券は 1 枚 600 円で、クレジットカードなどのキャッシュレス決済が利用可能。様々な種類の決済方法に対応しているにも関わらず、何故か「交通系だけ対応していないんですよ~」とのこと。たしかに色々な決済方法のロゴが並んでいるのに、交通系だけない…。

館内ではフラッシュ撮影は禁止とのことでしたが、フラッシュを使用しない撮影であれば一部の展示を除きしても大丈夫とのこと。展示は複数のフロアに別れていますが、各フロアの展示の入口にも写真撮影が可能という案内が設置されていました。

大阪歴史博物館の展示エリアは、7 階から 10 階までの 4 フロアにまたがっています。まずはエレベーターで一気に 10 階まで移動し、この地に難波宮が置かれた古代の大阪についての展示「難波宮の時代」を見ていきます。

エレベーターを降りると、すぐ正面に鎮座しているのが巨大な壁。こちらは大阪湾の海底ではるか昔から眠っていた土で焼き上げた「難波津焼き」の陶壁だそう。大地をモチーフにしたもので、刻まれている「難波」の文字は聖武天皇筆とされるものらしい。見上げるほどに巨大な壁に、展示エリアに足を踏み入れたばかりなのにいきなり圧倒されるようです。

大阪歴史博物館の後期難波宮大極殿の展示の写真

7 世紀の中ごろ、飛鳥の朝廷で権勢をほしいままにした蘇我氏を滅ぼした 孝徳天皇(こうとくてんのう)中大兄皇子(なかのおおえのみこ) たちが、大化元年(645 年)に、新しい政治を行うために 難波(なにわ) へと遷都し新たに築いたのが 難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや) という宮殿。日本で初めて中国の都をモデルにして作られた大規模なものだったとされ、現在「前期難波宮」と呼ばれている遺跡はこの難波長柄豊崎宮の遺跡だと考えられています。

一度は都が難波へと移されたものの、ずっとこの場所に都が置かれていたわけではないようで、孝徳天皇は共に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子と不和となり、その翌年となる白雉 5 年(654 年)に崩御。都が飛鳥へと戻されたり、その後即位して天智天皇となった中大兄皇子が大津宮(現在の滋賀県大津市)へと遷都したりと、政治の中心地は転々としていくことになります。

天武天皇の時代になり、天武 12 年(683 年)には難波が飛鳥とともに副都として定められました。再び都となり重要な拠点とされた難波宮でしたが、そのわずか 3 年後の 朱鳥(しゅちょう) 元年(686 年)に大規模な火災に見舞われ、前期難波宮の壮大な宮殿は灰燼に帰してしまいました。

難波の 大蔵省(おおくらのつかさ) から出火した火災によって焼失してしまった前期難波宮。朱雀門の発掘では柱を据えるための大きな穴と、その中に柱を抜き取ったような跡が見つかったそうで、抜き取った跡には焼壁や炭が多く混じっていて輪郭は赤く焼けていたとのこと。これは建物が火災に遭ったことを示し、この火災が事実であったことが分かります。展示エリア内には、実際の柱穴を剥ぎ取ったものが展示されていました。

大阪歴史博物館から見た難波宮跡の写真

藤原京へと都が移された後、和銅 3 年(710 年)には都が平城京(現在の奈良県奈良市)へと移され、奈良時代が始まります。聖武天皇が即位し、前期難波宮の遺構の上にさらなる威容を誇る難波宮の造営に着手。現在「後期難波宮」と呼ばれている宮殿が建てられることになりました。

古代の大阪についての展示がされている 10 階には、後期難波宮の 大極殿(だいごくでん) と呼ばれる建物を実物大で再現したという区画があります。大極殿とは古代の宮殿で最も中心的な建物のことで、元日の 朝賀(ちょうが) や外国使節の謁見など重要な儀式などの際に天皇が座すための建物のこと。天平 16 年(744 年)に 恭仁京(くにきょう) から 高御座(たかみくら) が運ばれ、左大臣 橘諸兄(たちばなのもろえ) により難波宮を都とする聖武天皇の勅命が宣せられた日の難波宮大極殿の様子が再現されています。

高御座とは、国家的な儀式の際に大極殿の中央に設置される天皇が座る場所。平面形は八角形で、頂上には鳳凰が、屋根には鏡が飾られています。そんな高御座を中心に正装した役人たちが威儀を正し、儀式の始まりを待っている場面にタイムスリップして、当時の雰囲気を感じることができるようになっていました。

建物は石造りの基壇上に建ち、屋根は瓦葺きで柱は丹塗りの赤。この朱色に塗られた柱は直径 70cm もあり、それが高い天井に向かってずらりと並ぶ光景は圧巻の一言。窓は緑に彩色され、中国風の鮮やかな外観であったとされています。

大阪歴史博物館の山根徳太郎胸像の写真

当時の様子を再現したエリア内には色鮮やかな衣装を着た役人たちが整列しており、この衣装の色は階位によって分けられていたのだとか。当時は服の色を見ただけでその人がどれくらい偉いのかが分かるようになっていたそうです。

そんな後期難波宮の大極殿には巨大な窓が設けられ、そこから現在の大阪の景色を見ることができるようになっています。眼下には本物の「難波宮跡」が広がり、当時の様子が再現された宮殿と、ガラス越しに見えるかつて宮殿が存在していた遺構を同時に見比べることができます。

道路を挟んで南側のエリアにあるのが大極殿が建っていた基壇、昨年開園したばかりの北側のエリアに見えるのが天皇の住まいがあったとされる内裏とその中心的な建物である内裏正殿があった場所。難波宮跡公園を訪れた際には「なんか古い歴史がありそうなものがあるな~」くらいに感じていましたが、こうして博物館で歴史を学んでから見ると、かつて日本の中心として輝いていた宮殿の記憶を宿す特別な場所に思えてきます。

壮麗な威容を誇った難波宮でしたが、延暦 3 年(784 年)の 桓武天皇(かんむてんのう) の長岡遷都に伴い、難波宮の主要な宮殿は解体されて長岡宮へ移築されていきました。難波津を拠点とする有力貴族や寺社などによる経済活動は引き続き活発に行われ、大阪の街は発展を続けていくことになります。

大阪歴史博物館の難波宮発掘現場の復元模型の写真

しかしながら、建物が消えてしまった難波宮はいつしか宮殿の正確な場所さえも歴史の闇に埋もれてしまうことになりました。その後、偶然手にした瓦から難波宮の存在を確信し、全く不明であったその所在地を突き止め遺跡の保存を訴え続けたのが、難波宮発掘の立役者として知られる 山根徳太郎(やまねとくたろう) 博士です。

大阪に生まれ、古代難波の歴史に興味を持って育った博士は、定年後に開始した発掘調査によって難波宮を発見します。1950 年以降、度重なる都市開発により消滅の危機に瀕していた難波宮でしたが、博士の「遺跡は一度壊したら再びつくれない」という執念と多くの市民の力によって、大都市の中に現在まで残る史跡公園が実現したのです。

発掘調査の開始があと数年遅れていたら、難波宮は地上から永久に姿を消していたかもしれないと思うと、本当にギリギリのところだったのだなという恐ろしさを感じるとともに、こうして難波宮の歴史を肌で感じられるのは強い信念を持って史跡を守り抜こうとした人々がいたからなのだなと改めて実感しました。

古代の大阪についての展示フロアの片隅には山根徳太郎博士の胸像が設置され、窓の外に広がる難波宮跡公園を静かに見つめていました。

大阪歴史博物館から見た大阪城公園の写真

飛鳥時代から奈良時代にかけての大阪の歴史を学んだ後は、エスカレーターに乗って 9 階へと移動。中世近世の大阪についての展示「大坂本願寺の時代・天下の台所の時代」へと足を進めます。10 階と 9 階の間を移動する途中では、窓の外に 大阪城公園 とその中心にそびえ立つ 大阪城 の姿を見ることができます。

窓の外にそびえる大阪城は、かつて織田信長と激戦を繰り広げた本願寺の跡地に建てられたもの。これから展示を見ていく中世から近世にかけての大阪は、まさにこの場所を舞台に商業の都へと劇的な変化を遂げていくことになります。

9 階の展示エリアに入り、まず目に飛び込んできたのは非常に精巧に作り込まれた中世の町並みの模型。少し前に地下鉄・阪急電車の 天神橋筋六丁目駅 近くにある 大阪くらしの今昔館という施設を訪れた のですが、そこにあった天保年間(1830 年代)の大阪の町並みを実物大で再現したという時代劇のセットのようなものをギュッと縮めてジオラマにしたかのような感じです。

同じくらいの時代の模型なのかな?とも思いましたが、建物の屋根が瓦屋根ではなく木板に石が乗せられたものとなっているので、大阪くらしの今昔館で再現されていたものよりは少し前の時代の町並みなのかも。街を歩く人々や、屋根の修理をしていると思われる人々の人形なども置かれ、以前大阪くらしの今昔館を訪れた際に感じたものとはまた違ったリアルさがありました。

大阪歴史博物館の中世近世の展示の写真

難波宮がなくなった後、大阪の町の中心となったのが 四天王寺 でした。四天王寺は 1,400 年以上の歴史がある日本仏法最初の官寺で、聖徳太子が建立したとされる日本で最も古い仏教寺院のひとつ。数年前に 私も実際に訪れた ことがあり、中心伽藍の中央に建てられた五重塔と金堂、そして北側にある講堂が南北に一直線に並んでいる様子や、その周りを回廊がぐるりと囲んでいる様子に圧倒された覚えがあります。

6 世紀末にできた四天王寺とは別に、もうひとつ大阪には重要な寺院が建てられました。それが「本願寺(大坂本願寺)」というお寺で、現在の大阪城がある場所にあったと考えられています。天文 2 年(1533 年)に上町台地の先端部に浄土真宗の大坂本願寺が成立し、それを核として大阪の町は大きく発展しました。

その後 16 世紀の終わり頃には、数多くの武士の中で力をつけてきた織田信長が大阪へと攻め入り、難攻不落の要塞でもあった大坂本願寺を相手に激しい戦い(石山合戦)を繰り広げることになります。

大阪歴史博物館の「中世都市の町並み」の展示の写真

織田信長の死後、そのあとを引き継いだのが豊臣秀吉です。秀吉は大坂本願寺の跡地に大阪城を建設し、城づくりと同時に商人や職人の居住域である城下町の整備も行いました。しかしながら栄華を極めた豊臣氏も「大坂の陣」によって滅亡し、大阪城とその城下町は戦火によって灰燼に帰してしまいます。

豊臣氏に代わってこの大阪の地を治めることになった徳川氏は、すぐさま大阪の復興に着手します。土地税を免除され、水路の整備によって水運の利便性が高まった大阪は商工業都市として大きな発展を遂げ、600 を超える町と最盛期には 40 万人もの人口を擁する大都市となりました。

600 を超える町は、それぞれ「北組」「南組」「天満組」の 3 つの町組から成る 大坂三郷(おおさかさんごう) のいずれかに属していました。各組や各町にはそれぞれ 惣年寄(そうどしより)町年寄(まちどしより) という役付の町人がいて、惣会所や町会所で自治を行っていたそう。以前訪れた 大阪くらしの今昔館 の、実物大で作られた「大坂町三丁目」にも町会所という建物があったのを思い出しました。

大阪城周辺や天満北東部には武家地、市街南東部と天満北部には寺町が設けられ、町人地とは区別されていたようです。

大阪歴史博物館の中世近世の展示の写真

今でも大阪といえば「天下の台所」と呼ばれることがありますが、そのように呼ばれるようになったのは江戸時代から。江戸時代の大阪は全国的な物資の集散地で、様々な場所から船によって年貢米や特産物などが運び込まれ、大阪やその周辺で生産された綿や酒、油などの物資が江戸や全国各地へと送られました。

市中では、全国各地から運ばれてくる物資を捌く「蔵屋敷」で発行された米切手を米仲買たちが売買する米市が立ちました。ここで決まった米相場が飛脚などで各地へと伝えられ、全国の米価や物価に大きな影響があったそう。当時の堂島米市の様子を再現したイラストや映像なども用意されていて、商人たちが集まる大阪らしい活気のある様子が伝わってきました。

物資を売買する町人や商人が活発に活動し、中には大名にお金を貸す有力な両替商もいたのだとか。大名とやり取りするとき、お金を貸す側なのにめっちゃ緊張しそうです。

大阪歴史博物館のなにわ考古研究所の写真

中世から近世にかけての展示を見た後、エスカレーターに乗ってひとつ下のフロアへ。8 階には「なにわ考古研究所」というエリアと、1~2 ヶ月程度で入れ替えしていく企画展のエリアがありました。

なにわ考古研究所には原寸大に再現した発掘現場が用意されていて、調査の方法や遺構・遺物の見方を学ぶことができます。ここまでの展示は、当時の様子を再現した空間や精巧な模型などはあるものの触れることはできず、見るだけのものばかりでしたが、ここでは「地層はめこみパズル」のように実際に手で触って楽しめるような展示がされていました。

その隣で行われていたのはミニ企画展「郷土玩具が好き」で、こちらは今年 2026 年 1 月 14 日から 4 月 6 日まで開催されているとのこと。各地の民間信仰や習俗と結びつきながら、紙や木材など身近な材料を使って作られた様々な郷土玩具が並んでいました。

大阪歴史博物館の「大大阪時代」の展示の写真

再びエスカレーターに乗って、いよいよ最後の展示「大大阪の時代」へと向かいます。7 階は近代から現代にかけての大阪についての展示となっていて、現在の世界的な大都市・大阪へと発展していくまでの道のりについて学ぶことができます。

近代の大阪は産業都市として発展し、ヨーロッパで起きた産業革命の中心地の名前を取って「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどでした。昔からの古い町並みを新しい時代に合わせて作り変える必要性が高まり、1920 年代頃には町を拡大して住宅地を郊外へと広げたり、自動車の普及に合わせて町の中心部の道路を広げたり、その道路の下に地下鉄を建設したりと、近代都市としての基礎が次々に整備されていきます。

大正 14 年(1925 年)、大阪市は周辺の 44 もの町や村を編入する第 2 次市域拡張を行い、人口は約 211 万人で日本最大、世界でも第 6 位の規模を誇る大都市となりました。人口だけでなく工業出荷額でも東京を抜いて日本一。この大阪の華々しい時代は「大大阪の時代」と呼ばれています。

大阪歴史博物館の「大大阪時代」の展示の写真

展示エリアには、その大大阪の象徴として地下鉄第 1 号線(御堂筋線)の淀屋橋駅ホームと心斎橋行きの地下鉄車両の後部を再現したものが展示されていました。第 1 号線は、昭和 8 年(1933 年)に梅田と心斎橋の間が開通し、昭和 10 年(1935 年)には難波へ、そして 昭和 13 年(1938 年)には天王寺まで開通。梅田・難波・天王寺という大阪の主要ターミナルが、地下鉄によって一直線に結ばれることになったのです。

大大阪の時代についての概要や関連する展示の先には、大正末期から昭和初期にかけて一際賑わった心斎橋筋や道頓堀などの街角を再現した映画のセットのような空間が広がっていました。

軒を連ねるモダンな商店の建物と看板、レトロな外観の公衆電話、そして行き交う人々…。どこを切り取っても絵になる風景で、本当に当時の大阪へと迷い込んだかのようです。ちょっと薄暗いこともあって、マネキンなのか他の来館者なのか分からなくなって「あっ、これマネキンか…」となる場面もありました。モダンな服を着ているし、背丈も普通の人と同じくらいなので、本当に一瞬「ん…?」ってなる…。

大阪歴史博物館の「博覧会と大阪」の展示の写真

上を見上げると「心斎橋筋」の文字。江戸から続く老舗も多く、和服や洋服、装身具などを中心に高級品や流行品を扱う街として賑わい、モダンな風俗の人々が歩く街だったそう。ここをブラブラ歩いて楽しむことを「心ぶら」と呼んでいたそうです。

昭和の時代の「心ぶら」を楽しんだ後は、様々な展示品が並ぶいかにも博物館然とした展示エリアへ。まず目に留まったのは博覧会についての内容です。商工業のさかんな大阪は博覧会都市でもあり、明治時代に開催された第 5 回内国勧業博覧会(1903 年)は国内外の産業に関する大きな博覧会だったそう。

大正・昭和の戦前期にも「大大阪記念博覧会(1925 年)」など、多くの博覧会が大阪で開催されたのだそう。そして昭和 45 年(1970 年)には日本万国博覧会が千里丘陵で開かれ、万国博史上最大の博覧会となりました。以前、日本万国博覧会の跡地に広がる万博記念公園内の EXPO’70 パビリオンを訪れた ことがあるのですが、国際博覧会史上初めて収支が黒字となるほど多くの人が訪れたようです。

大阪歴史博物館の「大大阪時代」の展示の写真

博覧会の展示の隣には、かつての阪急百貨店旧うめだ本店の 8 階大食堂の窓面上部に使われていた円形のステンドグラスの展示がありました。鉄道の終着駅に百貨店を建てるというターミナル・デパートの構想を初めて実現させたのが阪急の創業者・小林一三氏であったことは有名な話ですが、その阪急百貨店では上層階に大食堂を用意し、平日は会社員、休日は家族連れが店を訪れて各フロアに足を運ぶように計画したのだそう。

大正後期から昭和初期にかけて誕生したデパートは、様々な日用品と流行の品が並ぶ新しい消費を楽しむ場として人気を博しました。その人気もあってか、竣工後に第 9 期にわたって増築され続けた阪急百貨店旧うめだ本店は、平成 18 年(2006 年)までに地上部が解体。平成 22 年(2010 年)に地上 187m の高層ビルへと建て替えられました。

大阪歴史博物館の「大大阪時代」の展示の写真

また、その近くには「阪神電鉄梅田駅模型」という駅の模型が展示されていました。現在では地下化されている阪神電車の 大阪梅田駅 ですが、昭和 14 年(1939 年)に地下化されるまでは地上にあったのだそう。この模型は大正 15 年(1926 年)に完成した阪神電鉄梅田駅を再現したものとのことで、現在この場所には商業施設「ハービス PLAZA ENT」が建てられています。


大阪歴史博物館へ行ってきましたが、難波宮が置かれた時代から栄えてきた大阪という街の歴史の厚みに圧倒されるばかりでした。大阪に住んで 7 年、街を歩いているときになんとなく見ていたところから、徐々に歴史に目を向けるように意識が変わってきたこともあり、こうして体系的に順序立てて歴史を見ていくとより一層理解が深まるようでした。

文章の中で、過去の投稿について触れている箇所がいくつも出てきましたが、これまで巡ってきたひとつひとつの場所が線で繋がっていくような感じがして熱かったです。大阪に来たばかりの頃には体験できない、これまでの集大成みたいな「歴史学習」ができたのが非常に良かったです。